2012年3月28日水曜日

原子力発電所事故


今日は原子力発電所が事故を起こした日でもあります

1979年3月28日

スリーマイル島原子力発電所事故


アメリカ合衆国東北部ペンシルベニア州のスリーマイル島で原子力発電所で

原子炉冷却材喪失し、想定された事故の規模を上回る過酷な事故が発生

原発に対するそれまでの「安全神話」を覆し
アメリカ国内に反原発の機運が高まるきっかけになったばかりでなく
多重安全設計を施した巨大システムが、ちょっとしたヒューマン・エラーから呆気なく崩壊していくことを示す格好の事例

国際原子力事象評価尺度 (INES) においてレベル5の事例です。


スリーマイル島とは、州都ハリスバーグ郊外のサスケハナ川に所在し
周囲が約3マイルの為、スリーマイル島 (Three Mile Island) と呼ばれる

スリーマイル島原子力発電所で運転を担当したのは、メトロポリタン・エジソン社という地方電力会社
所有はGPUニュクリア社

スリーマイル島原子力発電所は2つの原子炉を有し、そのうち2号炉はバブコック&ウィルコックス社(B&W社)が設計した加圧水型原子炉 (PWR) で電気出力は96万kWであった。
事故当日、2号炉は営業運転開始から3ヶ月を経過しており、定格出力の97%で営業運転中だった。

事故は1979年3月28日午前4時過ぎから起こった。
2次系の脱塩塔のイオン交換樹脂を再生するために移送する作業が続けられていたが、この移送鞄管に樹脂が詰まり、作業は難航していた。
この時に、樹脂移送用の水が、弁等を制御する計装用空気系に混入したために異常を検知した脱塩塔出入口の弁が閉じ、この結果主給水ポンプが停止し、ほとんど同時にタービンが停止した。
二次冷却水の給水ポンプが止まったため、蒸気発生器への二次冷却水の供給が行われず、除熱が出来ないことになり、一次冷却系を含む炉心の圧力が上昇し加圧器逃し安全弁が開いた。
このとき弁が開いたまま固着し圧力が下がってもなお弁が開いたままとなり、蒸気の形で大量の原子炉冷却材が失われていった。
加圧器逃し安全弁が熱により開いたまま固着してしまったのである。
原子炉は自動的にスクラム(緊急時に制御棒を炉心に全部入れ、核反応を停止させる)し非常用炉心冷却装置が動作したが、すでに原子炉内の圧力が低下していて冷却水が沸騰しておりボイド(蒸気泡)が水位計に流入して指示を押し上げたため加圧器水位計が正しい水位を示さなかった。
このため運転員が冷却水過剰と誤判断し、非常用炉心冷却装置は手動で停止されてしまう。
このあと一次系の給水ポンプも停止されてしまったため、結局2時間20分開いたままになっていた安全弁から500トンの冷却水が流出し、炉心上部3分の2が蒸気中にむき出しとなり、崩壊熱によって燃料棒が破損した。このため周辺住民の大規模避難が行われた。運転員による給水回復措置が取られ、事故は終息した。
結局、炉心溶融(メルトダウン)で、燃料の45%、62トンが溶融し、うち20トンが原子炉圧力容器の底に溜まった。給水回復の急激な冷却によって、炉心溶解が予想より大きかったとされている。


周辺地域への影響

放出された放射性物質は希ガス(ヘリウム、アルゴン、キセノン等)が大半で約92.5 PBq(250万キュリー)。
ヨウ素は約555GBq(15キュリー)に過ぎない。
セシウムは放出されなかった。周辺住民の被曝は0.01 - 1mSv程度とされる(後述)。
この被害は1957年に起きたイギリスのウィンズケール原子炉事故に次ぐ。

人体への影響

米国原子力学会は、公式発表された放出値を用いて、「発電所から10マイル以内に住む住民の平均被曝量は8ミリレムであり、個人単位でも100ミリレムを超える者はいない。
8ミリレムは胸部X線検査とほぼ同じで、100ミリレムは米国民が1年で受ける平均自然放射線量のおよそ三分の一だ」としている(1ミリレムは0.01mSv)。
放射性降下物による健康への影響に関する初期の科学的文献は、こうした放出値に基づいて、発電所の周辺10マイルの地域におけるガンによる死者の増加数は1人か2人と推定している。
10マイル圏外の死亡率が調査されたことはない。
1980年代になると、健康被害に関する伝聞報告に基づいて地元での運動が活発化し、科学的調査への委託につながったが、一連の調査によって事故が健康に有意な影響を与えたという結論は出なかった。
en:Radiation and Public Health Projectは、19の医学論文と書籍 Low Level Radiation and Immune Disease を著した Joseph Mangano による算定を引用して
事故の2年後の風下地域における乳幼児死亡率に急な増加が見られることを報告した。

動植物への影響

地域の動植物にも影響があったとも伝えられている]。
反核運動家 en:Harvey Wasserman は、放射性降下物は「地域の野生動物や農場の家畜に死や病気の災厄」をもたらし、その一例として馬や牛の繁殖率が著しく低下したことがペンシルベニアの農業局が出した統計に表れていると述べたが[6]、同局は事故との関連を否定している。
また、原発から40km圏内で100以上の動植物の奇形が発見されていると報道されている

<ウィキペディアより>

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神仏分離令

今日は何の日?

慶応4年(1868)の3月28日

維新政府は神仏混淆を禁止し、寺院と神社を分離するように命じる神仏分離令(正式には神仏判然令)を出しました。


神仏分離(しんぶつぶんり)は、神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させることです
神仏混淆は元々、神道を信仰する一般大衆に仏教を広めるために仏教の末端の伝道師たちが「神様も仏様も実は同じもの」などと言って進めたのが始まりであるともいわれます。
平安時代の末期頃には仏教界と神道界も共存のための妥協を行うようになっていました。

お正月を神道中心にするお祭り

お盆は仏教中心にお祭り

子供が生まれた時は神社にお参りして

人が亡くなった時は坊さんが来てお経をあげる

などといった形で両者は宗教的行事を折半していきます。

春分・秋分もお寺でお彼岸の行事をして神社では社日の行事をします。

しかし、明治維新になって幕府の治世が終わると、維新政府は新しい国には新しい宗教が必要であると考え、新しく国教を定めようとしました。
この時、西洋の国にならって、日本でもキリスト教を国教にしようという意見も出たらしいのですが
多数派を占めるにはいたらず「国家神道」が構築されていくことになります。
そして手始めに、まずお寺と神社を明確に分離しようという意図で出たのが、この神仏判然令なのですが
これは政府の意図を越えて破壊的広がりを見せ、全国的な廃仏毀釈運動を起こしてしまいます。

それまで大きな顔をしていた僧たちに反感を覚えていた民衆が神仏判然令を「寺を廃し仏像は破壊せよ」と拡大解釈して
寺を襲撃し
貴重な仏像が破壊され
或いは海外に流出するという事態が全国各地で生まれ日本全国で大混乱が起きました

明治政府も民衆の過熱に驚き、沈静化を図るために「寺を廃せよなどとは言ってない」という布告を出したりして対応しますが、かなりの時間を要しました。

「国家神道」として政府が欲しかったのは
政府の政策に忠実になってくれる臣民
それをベースにひとつの新たな宗教を創ろうとしたようなものです
別に神社を保護したわけではないので、多様な信仰はむしろ邪魔でした。

政府は「ひとつの村に神社は一つだけにせよ」という布告を出し
更に神社が持っている土地で、直接祭祀に関わりのないものは全て手放すように命じた
このため多くの神社が統廃合され
神社の鳥居が境内からずいぶん離れた場所に建っているという事態が数多く引き起こします。
更には全国の神社に調査官が派遣されて多数の神社で御祭神の書き換えが行われたことがあり
現在では本来の御祭神が何であったのか分からなくなってしまった神社も多くあります。
また国に忠実でないとみなされた宗派は厳しい弾圧を受けたりもしています。


そして、戦後の「宗教の自由」で仏教・神道が本来の宗教としての姿に戻りました




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2012年3月21日水曜日

空海

今日は何の日?

空海、没の日
(宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日)



平安時代初期の僧。

真言宗の開祖で知られる空海

俗名は佐伯 眞魚

日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し中国より真言密教をもたらした。

能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる。

延喜21年10月27日、東寺長者観賢の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られた。

最初は「本覚大師」の諡号が贈られることになっていたが、「弘法利生(こうぼうりしょう)」の業績から、「弘法大師」の諡号が贈られることになった。

弘法大の伝説

弘法大師に関する伝説は、北海道を除く日本各地に5,000以上あるといわれ

歴史上の空海の足跡をはるかに越えている。

柳田国男は大子(神の長男を意味)伝説が大師伝説に転化したという説を提出しているが

ほかに中世、日本全国を勧進して廻った遊行僧である高野聖の存在もある。

ただ、闇雲に多くの事象と弘法大師が結び付けられたわけではなく、やはり空海の幅広い分野での活躍、そして空海への尊崇がその伝説形成の底辺にあると考えられる。

弘法大師にまつわる伝説は寺院の建立や仏像などの彫刻

あるいは聖水、岩石、動植物など多岐にわたるが、

特に弘法水に関する伝説は日本各地に残っている。

弘法大師が杖をつくと泉が湧き井戸や池となった、といった弘法水の伝承をもつ場所は日本全国で千数百件にのぼるといわれている。

弘法水は、場所やそのいわれによって、「独鈷水」「御加持水」などと呼ばれている。

<ウィキペディアより>


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2012年3月15日木曜日

日光東照宮

今日は何の日?

1961年・昭和36年3月15日

日光東照宮薬師堂が焼失

日光の東照宮境内にある国の重要文化財「薬師堂」が全焼しました。

狩野安信の筆による名高い天井画「鳴竜」も焼失

その後、再建され「鳴竜」も復元されたましたが

火災の原因は電熱器の不始末による失火だったそうです。



日本人のみならず外国人にも親しまれている知名度の高い神社である日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は

江戸幕府初代将軍徳川家康を神格化した東照大権現を祀る神社で

日本全国の東照宮の総本社的存在。元和3年(1617年)の創建。

元和2年(1616年)4月17日、徳川家康が駿府(静岡)で死去すると遺骸は直ちに駿河国の久能山へ葬られ、翌元和3年に下野国日光へ改葬されました。

同年4月に社殿が完成し、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日に奥院廟塔に改葬され、4月17日に遷座祭が行われた。

家康が日光に改葬されたのは、『遺体は久能山におさめ、一周忌が過ぎたら、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神としてまつること。そして、八州の鎮守となろう』という家康本人の遺言によるものでした。

家康が目指した『八州の鎮守』とは、日本全土の平和の守り神であり、家康は、不動の北極星の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたと言われます。

尚、現在のおもな社殿群は、三代将軍家光公によって、寛永13年(1636年)に造替されたものです


日光東照宮と陰陽道

日光東照宮は、陰陽道に強い影響を受け、本殿前に設けられた陽明門とその前の鳥居を中心に結んだ上空に北極星が来るように造られているといわれます。

また、その線を真南に行けば江戸へ着くとされ、さらに主要な建物を線で結ぶと北斗七星の配置と寸分違わぬよう設計されているといわれます。

(ウィキペディアより)


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2012年3月14日水曜日

「輪廻転生」‐死後の世界

よく耳にする孤独死

有名著名人の死亡ニュース

毎日の様に死に関するニュースが流れています

最近では元タレントの山口美江さん(51歳)が心不全のため亡くなっなられました

皆さんも一度は考えた事があると思います

「何の為に生きているのだろう?」と

なかには「死ぬために生きているのだ」という人もいます

「死んだらどうなるのだろう?」

苦痛の境地?幸福の境地?または無の境地?

様々な考えがあります

その中の一つ「輪廻転生」という考え方があります

今回は、その「輪廻転生」について書いてみたいと思います


転生輪廻とは、死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることを言います

つまり死んだ後、何か他のものに生まれ変わるという思想です

ヒンドゥー教や仏教などインド哲学、東洋思想において顕著ですが

古代のエジプトやギリシャなど世界の各地に見られます

輪廻転生観が存在しないイスラム教においても、アラウィー派やドゥルーズ派等は輪廻転生の考え方を持っているようです。

統計によるとアメリカ人の25%がこの輪廻転生を信じているのだそうです

輪廻転生説は多くの人に希望をもたらすようです。もしもこの世でうまくいかなかったとしても、次の世界ではチャンスがめぐってくると信じるからです

ヒンドゥー教における輪廻

ヒンドゥー教の前身であるバラモン教において、はじめて断片的な輪廻思想があらわれたのは、バラモン教最終期のブラーフマナ文献

ないし最初期のウパニシャッド文献においてである。

こでは、「輪廻」という語は用いられず、「五火」と「二道」の説として現れ、「五火二道説」が著名である。

「五火説」とは、5つの祭火になぞらえ、死者は月にいったんとどまり、雨となって地に戻り

植物に吸収されて穀類となり

それを食べた男性の精子となって、女性との性的な交わりによって胎内に注ぎ込まれて胎児となり

そして再び誕生するという考え方である。

二道説とは、再生のある道(祖霊たちの道)と再生のない道(神々の道)の2つを指し、再生のある道(輪廻)とはすなわち五火説の内容を示しています


キリスト教などにおける「復活」という概念がありますが

それは「一度限りの転生」と見なすことができます。

ただし、復活の場合はより狭く、生前と同じ人格を保ったままの転生と考えられます。


しかし、殆どの人が、前世での自分の記憶ありませんで「輪廻転生」を確認することができません

前世での失敗や苦しみを、次の自分に伝える事は不可能に近いのです

ただ、一つ言える事は

必ず死は訪れ、輪廻転生したとしても、前世とは違った失敗や苦しみは有る筈です

今を生きている記憶のある自分の人生は一度きりです

悔いが残らぬように人生を楽しむ事

精一杯生きる事ではないでしょうか


何を信じるかは、あなた次第です


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2012年3月2日金曜日

遠山の金さん

今日は何の日?

遠山の金さん、江戸北町奉行となった日


テレビドラマのモデルとして知られる『遠山の金さん』



正式名は遠山 景元(とおやま かげもと)

幼名は通之進、通称は金四郎(きんしろう)。

官位は従五位下左衛門少尉

江戸時代の旗本で、天保年間に江戸北町奉行、後に南町奉行を務めた人物です

その「遠山の金さん」で有名な「桜吹雪」の刺青

これには諸説あり

「右腕のみ」や「左腕に花模様」

「桜の花びら1枚だけ」、「背中に女の生首」

「全身くまなく」と様々に伝えられていますが

彫り物自体を疑問視する説や、通常「武家彫り」するところを「博徒彫り」にしていたという説もあります。

しかし、彫り物をしていた事を確証する文献はありません

奉行として、基本的に入れ墨は論外なので、おそらく肘まであった彫り物を隠していたのではないかという


町奉行の仕事は江戸市内の行政・司法全般を網羅している。

現代でいうところの、東京都知事と警視総監と東京地方裁判所判事を兼務したような存在であり

裁判所判事の仕事は、町奉行の役割の一部でであり、現代のような専任ではありません

テレビドラマでの有名な場面は、現代での裁判風景

それを考慮すると裁判所判事と検察官も兼務しているみたいです

「遠山の金さん」は当時から裁判上手だったという評判がはあり

将軍徳川家慶から裁判ぶりを激賞され、奉行の模範とまで讃えられました

遠山の金さん(景元)が、色々対立してきたが

罷免されなかったのは、この将軍からのお墨付きのおかげだと考えられます



現代の警察や検察などの司法関係者は、様々な問題を起こしています

冤罪

証拠書類改ざん

証拠捏造

暴力行為

わいせつ行為

窃盗

横領

挙げればキリがありません


司法関係者は、正義の味方であってほしいものですね


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