1882年の今日(3月1日)
福澤諭吉が日刊新聞『時事新報』を創刊
『時事新報』とは
はかつて存在した日本の日刊新聞で、戦前の五大新聞の一つ。
1882年(明治15年)3月1日、福澤諭吉の手により創刊。
その後、慶應義塾大学及びその出身者が全面協力して運営
創刊に当たって
「我日本国の独立を重んじて、畢生の目的、唯国権の一点に在る」
と宣言した。
現在も、株式会社時事新報社として存続している
福澤諭吉は1901年(明治34年)2月3日に脳出血により死去
大学の敷地内に住居を構えていたため、慶應義塾大学三田キャンパスに彼の終焉の地を示した石碑が設置されている
戒名は「大観院独立自尊居士」で、麻布山善福寺にその墓がある。
命日の2月3日は雪池忌(ゆきちき)と呼ばれ
塾長以下学生など多くの慶應義塾関係者が墓参する。
昭和52年(1977年)、最初の埋葬地から麻布善福寺へ改葬の際
遺体がミイラ(死蝋)化して残っているのが発見された。
外気と遮断され比較的低温の地下水に浸され続けたために腐敗が進まず保存されたものと推定された。
学術解剖や遺体保存の声もあったが、遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされた。
福澤諭吉が日刊新聞『時事新報』を創刊
『時事新報』とは
はかつて存在した日本の日刊新聞で、戦前の五大新聞の一つ。
1882年(明治15年)3月1日、福澤諭吉の手により創刊。
その後、慶應義塾大学及びその出身者が全面協力して運営
創刊に当たって
「我日本国の独立を重んじて、畢生の目的、唯国権の一点に在る」
と宣言した。
現在も、株式会社時事新報社として存続している
明治22年2月の紙面 |
福澤諭吉は1901年(明治34年)2月3日に脳出血により死去
大学の敷地内に住居を構えていたため、慶應義塾大学三田キャンパスに彼の終焉の地を示した石碑が設置されている
戒名は「大観院独立自尊居士」で、麻布山善福寺にその墓がある。
命日の2月3日は雪池忌(ゆきちき)と呼ばれ
塾長以下学生など多くの慶應義塾関係者が墓参する。
昭和52年(1977年)、最初の埋葬地から麻布善福寺へ改葬の際
遺体がミイラ(死蝋)化して残っているのが発見された。
外気と遮断され比較的低温の地下水に浸され続けたために腐敗が進まず保存されたものと推定された。
学術解剖や遺体保存の声もあったが、遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされた。