2012年4月12日木曜日

福岡県の「呪いの話」



福岡の「呪いの話」

福岡県の太平洋側の地・豊前には今の栃木県からでて勢力をはった宇都宮家が戦国時代より国人として勢力をはっていた。

豊臣秀吉が1587年に九州遠征をし、最大勢力・島津氏を屈服させると黒田官兵衛孝高は今の豊前12万3千石を拝領して中津城を居城とした。

しかし中津にはもともと宇都宮氏(城井氏)が国人として勢力をはっていたため黒田・宇都宮間での確執は当然の成り行きであった。

黒田の主人である秀吉は、宇都宮氏に完全服従を求めるが、宇都宮氏は鎌倉以来の名族の誇りからか秀吉への謁見を長子に代理させ、伊予今治への国替えの命にも従わなかった。

そこで関白秀吉は黒田孝高に宇都宮氏討伐の命令を出すのである。

1589年、秀吉より宇都宮鎮房に中津城で福岡・黒田藩の初代藩主で孝高の子・長政と対面せよという教書がくだった。

その時、黒田長政は政略結婚の話で鎮房を誘い出し飲食を供し、そのさなかににわかに鎮房を殺し、合元寺に待たせてあった鎮房の手勢には軍勢をさしむけ皆殺しにしたのである。

合元寺はその後、門前の白壁を幾度塗り替えても血痕が絶えないくなり、ついに赤壁に塗られるようになったという。当時の激戦の様子が今も庫裏の大黒柱に刃痕が点々と残されている。

黒田長政は福岡城に城井神社を建立し鎮房の霊を慰めたが、この出来事はその後も長く福岡に恐ろしい影をなげかけることになる。

黒田藩は六代にしての血統が断絶し、親幕府藩主を迎えるための家臣団間の血ぬられた処分や、最後の藩主・長知の贋札作りの発覚による処分など不穏な出来事が続いていく。

そしてその度ごとに「宇都宮氏の呪いか」とささやかれてきた。

幕末、黒田藩では贋札つくり発覚し藩主は処分をうけるのであるが、その贋札作りの屋敷こそは宇都宮惨殺事件で一番乗りをした野村氏の屋敷であった。いやが上にもあの血なまぐさい出来事との関わりが噂されたのである。

ところで豊前・元合寺の開山・空誉は中津より黒田孝高にしたがって福岡に入国し、橋口町にあった智福寺の住持となった。

しかし、三代・黒田忠之の怒りにふれ、鉛責めによって殺され、智福寺も廃された。黒田忠之の怒りの理由は定かではないものの当然、宇都宮氏惨殺との関わりが考えられる。

そして現代、この智福寺があったあたりに旧福岡県知事公舎が建てられた。

今のアクロス福岡あたりである。



当時の新聞によると二十四代福岡県知事は亡霊に夜ごとうなされて眠れず、知事の書生ももののけにとりつかれたようになったために
空誉が釜責めのあった草の生えていない庭に小さな銅ぶきの祠を建てて怨霊を慰めたという。そこには現在「福岡藩刑場跡の碑」が立っている。


ところで福岡で麻生家といえば、安川家、貝島家とならぶ炭鉱御三家とよばれるが、麻生家の歴史は古く中世にまでさかのぼる。麻生家は中世期に遠賀郡に所領をえ幕末には、飯塚の立岩村、下三緒村などの庄屋、大庄屋を務めた。炭鉱経営資料を含む「麻生文書」を伝えてきた家柄である。

福岡で有名な麻生家の血筋は、宇都宮氏とつながっているのである。


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