東大寺大仏造営の僧、行基の没
行基(ぎょうき/ぎょうぎ)
【天智天皇7年 - 天平21年2月2日】
奈良時代の僧
僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の一般民衆への布教を禁じた時代に
禁を破り、畿内を中心に民衆や豪族層を問わず、広く仏法の教えを説き、人々より篤く崇敬された
また、道場・寺を多く建てたのみならず
溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を、困窮者のための布施屋9ヶ所等の設立など
社会事業を各地で行った。
朝廷からは度々弾圧されたが
民衆の圧倒的な支持を背景に後に大僧正として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺ほか)建立の実
質上の責任者として招聘された。
この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。
民衆を煽動する人物であり
寺外の活動が僧尼令に違反するとし、養老元年4月23日詔をもって糾弾されて弾圧を受けた。
だが、
基の指導により墾田開発や社会事業が進展したこと
地方豪族や民衆らを中心とした教団の拡大を抑えきれなかったこと
行基の活動が政府が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないことから
731年(天平3年)弾圧を緩め、翌年河内国の狭山下池の築造に行基の技術力や
農民動員の力量を利用した。
736年(天平8年)に、インド出身の僧菩提僊那がチャンパ王国出身の僧仏哲・唐の僧道璿とともに来日した。
彼らは、九州の大宰府に赴き、行基に迎えられて平城京に入京し大安寺に住し
時服を与えられている。738年(天平10年)に朝廷より行基大徳の称号が下された。