2014年4月11日金曜日

江戸城無血開城

1868年(慶応4年)4月11日

3月14日に行われた幕府全権陸軍総裁:勝安芳(勝海舟)と

新政府軍参謀・西郷隆盛(42歳)の間で行われた和平交渉の結果

江戸城は開城され、新政府軍に明け渡された。

徳川慶喜(32歳)は上野の寛永寺に謹慎して恭順の意を示していたが、これに納得しない旧幕府勢力の一部は江戸城に立て籠もり、最後の決戦に臨む覚悟でいた。

新政府軍による江戸城総攻撃は3月15日と予定されていたが、勝の「公のために」という必死の説得に西郷も応じ、江戸が戦火に巻き込まれることは免れた。


その後、幕府の根拠地であった江戸城も新政府軍の手に入ったのだが

これを不服とする幕臣の一部は彰義隊(しょうぎたい)を結成し、上野の寛永寺に立て籠もり抵抗を続けた。

また、会津藩を保護しようとする東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成

新政府軍と対立する姿勢をとったため、戊辰戦争は継続されることになった。

一方、2月12日から上野の寛永寺に謹慎していた徳川慶喜は、水戸に移り15日から水戸藩校の弘道館にて謹慎生活を始めた。

謹慎生活を続けていた慶喜は月代(さかやき)も髭も伸び放題という姿で、駕籠で出発。

5月、徳川家は一大名の格に落とされ駿河・遠江・三河に70万石を与えられ慶喜は駿府に移った。

江戸にいた御家人、旗本もこれについていった。こうして、徳川家は存続されることになった。