2012年4月16日月曜日

幽霊寺 永国寺

『幽霊の掛軸』で有名な永国寺


歴史は大変古く、室町時代初期の応永15年(1408)に実底和尚による開山といいますから

今から約600年前の創立になります。



また、この寺は、田原坂(熊本県)で敗れて人吉に入った西郷隆盛が薩軍本営に定めた寺としても知られています。

明治10年、田原坂で敗れた西郷隆盛は八代(やつしろ)より当地に逃れ、古くより要害の地である人吉によって官軍を防ごうとした。

当時、すでに繊月城(人吉城)は取り壊されていたので、当永国寺に本営を設け、桐野利秋ら参謀諸将が日夜、策を練った。

4月27日に人吉へきてより33日間、官軍を防いだがついに5月29日、西郷隆盛は加久藤(かくとう)峠を越え小林へ逃れた。

その時に、当寺もことごとく灰燼(はいじん)に帰した。寺宝等もあらかた燃えてしまったが、その時に焼け残った一つが当寺の幽霊の掛軸である。

この碑は、西郷本陣跡を記念して海軍大将山本善輔が揮毫したものである。という説明があります

本堂裏には幽霊が出たという池があります。湧水池で、春にはつつじや海棠など、夏にはすいれんなどが咲き乱れ、四季の変化を楽しむことができます。

幽霊の掛軸


永国寺の開山実底超真和尚が描いたと伝えられている。
創建当時、近郷の木上にさる知名な士がおり、妾を囲ったがその妾は本妻の嫉妬に悩み、球磨川に身を投げて非業の死を遂げた。
しかし、その怨みが幽霊となり、本妻を苦しめたのである。

すると本妻は実底和尚の法力を頼り、当寺へ駆け込んだ。
和尚の前に現れた幽霊は、和尚より因果の道理を説き聞かされ、和尚が描いた己れの醜い姿に驚き、和尚に引導を渡して欲しいと懇願した。
実底和尚の引導に依り成仏し、それから妾の幽霊は現れなくなったという。

幽霊の胸のあたりに男の顔が浮かび上がっているという話をご住職も聞いたと言うが、見るとそれらしい跡がわかる。ご住職は「キズだろう」と一笑された。

この掛け軸の写真を撮って、奇妙な現象が起こり、送り返してくる人もいるという。
そのほとんどがお堂で公開している掛け軸の写真の写真であるそうだ。
送られてきた写真は、すべて供養して焼いているという


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2012年4月12日木曜日

福岡県の「呪いの話」



福岡の「呪いの話」

福岡県の太平洋側の地・豊前には今の栃木県からでて勢力をはった宇都宮家が戦国時代より国人として勢力をはっていた。

豊臣秀吉が1587年に九州遠征をし、最大勢力・島津氏を屈服させると黒田官兵衛孝高は今の豊前12万3千石を拝領して中津城を居城とした。

しかし中津にはもともと宇都宮氏(城井氏)が国人として勢力をはっていたため黒田・宇都宮間での確執は当然の成り行きであった。

黒田の主人である秀吉は、宇都宮氏に完全服従を求めるが、宇都宮氏は鎌倉以来の名族の誇りからか秀吉への謁見を長子に代理させ、伊予今治への国替えの命にも従わなかった。

そこで関白秀吉は黒田孝高に宇都宮氏討伐の命令を出すのである。

1589年、秀吉より宇都宮鎮房に中津城で福岡・黒田藩の初代藩主で孝高の子・長政と対面せよという教書がくだった。

その時、黒田長政は政略結婚の話で鎮房を誘い出し飲食を供し、そのさなかににわかに鎮房を殺し、合元寺に待たせてあった鎮房の手勢には軍勢をさしむけ皆殺しにしたのである。

合元寺はその後、門前の白壁を幾度塗り替えても血痕が絶えないくなり、ついに赤壁に塗られるようになったという。当時の激戦の様子が今も庫裏の大黒柱に刃痕が点々と残されている。

黒田長政は福岡城に城井神社を建立し鎮房の霊を慰めたが、この出来事はその後も長く福岡に恐ろしい影をなげかけることになる。

黒田藩は六代にしての血統が断絶し、親幕府藩主を迎えるための家臣団間の血ぬられた処分や、最後の藩主・長知の贋札作りの発覚による処分など不穏な出来事が続いていく。

そしてその度ごとに「宇都宮氏の呪いか」とささやかれてきた。

幕末、黒田藩では贋札つくり発覚し藩主は処分をうけるのであるが、その贋札作りの屋敷こそは宇都宮惨殺事件で一番乗りをした野村氏の屋敷であった。いやが上にもあの血なまぐさい出来事との関わりが噂されたのである。

ところで豊前・元合寺の開山・空誉は中津より黒田孝高にしたがって福岡に入国し、橋口町にあった智福寺の住持となった。

しかし、三代・黒田忠之の怒りにふれ、鉛責めによって殺され、智福寺も廃された。黒田忠之の怒りの理由は定かではないものの当然、宇都宮氏惨殺との関わりが考えられる。

そして現代、この智福寺があったあたりに旧福岡県知事公舎が建てられた。

今のアクロス福岡あたりである。



当時の新聞によると二十四代福岡県知事は亡霊に夜ごとうなされて眠れず、知事の書生ももののけにとりつかれたようになったために
空誉が釜責めのあった草の生えていない庭に小さな銅ぶきの祠を建てて怨霊を慰めたという。そこには現在「福岡藩刑場跡の碑」が立っている。


ところで福岡で麻生家といえば、安川家、貝島家とならぶ炭鉱御三家とよばれるが、麻生家の歴史は古く中世にまでさかのぼる。麻生家は中世期に遠賀郡に所領をえ幕末には、飯塚の立岩村、下三緒村などの庄屋、大庄屋を務めた。炭鉱経営資料を含む「麻生文書」を伝えてきた家柄である。

福岡で有名な麻生家の血筋は、宇都宮氏とつながっているのである。


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2012年4月6日金曜日

岐阜事件、板垣退助遭難事件


今日は何の日?

1882年(明治15年)4月6日

自由党党首、板垣退助が岐阜で暴漢に襲われた日


板垣退助遭難事件、岐阜遭難事件といわれています

---事件概要---

1881年(明治14年)10月18日、日本初の政党、自由党が結成され
同年11月9日に板垣退助は自由党総理(党首)に就任
この頃、自由民権運動は頂点を迎える

1882年(明治15年)3月10日、板垣退助は竹内綱、宮地茂春、安芸喜代香らとともに、東海道遊説旅行の為に東京を出発。
3月29日に名古屋で演説後
4月5日に岐阜の旅館(玉井屋)に到着する。
4月6日、岐阜の中教院にて板垣退助、内藤魯一らが演説を行い午後6時頃演説を終える。
4月6日午後6時半頃、板垣退助は帰途に就こうと中教院の玄関の階段を下りる。
その時、「将来の賊」と叫びながら相原尚褧が、刃渡り9寸(約27cm)の短刀を振りかざし板垣退助に襲い掛かる。
相原は板垣の胸を狙い、左胸を刺す。板垣は相原の腹部に肘で当身を行い(板垣は呑敵流小具足術の柔術を会得していた)怯ませるが、再び相原は襲い掛かる。板垣は短刀を持った手を押さえた際、短刀で親指と人差し指の間を負傷する。二人がもみ合うのに気づいた内藤魯一が駆け寄り、相原を押さえ込む。
その場にいた者たちは第2の刺客に警戒しつつ板垣を連れ、近くの民家に避難する。通報を受けた岐阜警察署から警察医が派遣され、診察をする。その結果、命に別状は無いが、左胸、右胸に各1ヶ所、右手に2ヶ所、左手に2ヶ所、左頬に1ヶ所の、計7ヶ所に傷を負っていた。
夜になり、東京の自由党本部に板垣遭難の連絡が入る。この時点では板垣が殺されたという連絡であり、大石正巳は、後藤象二郎、谷重喜にその事を伝える。
怒った後藤象二郎は直ちに岐阜へ向かう用意をするが、板垣が無事という報告を受けると、自由党総代として谷重喜のみ岐阜へ向かう。又、知らせを受けた大阪の中島信行、高知の片岡健吉、植木枝盛も岐阜に向かい、立憲改進党の大隈重信も使いを岐阜へ向かわせる。

4月7日、政府首脳にも板垣遭難の連絡が入り、政府は閣議を中止。
山縣有朋は明治天皇に事件を上奏すると、直ちに勅使の派遣が決定する。同日午前、内藤魯一の連絡を受けた愛知県病院長後藤新平が板垣の治療の為に訪れる。板垣は後藤新平を政府からの刺客と勘違いし会う事を断るが、まわりの者に説得されて治療を受け正午過ぎに治療を終える。その際、板垣は「彼(後藤)を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。
正午過ぎ、翌日に明治天皇勅使来訪との電報を受ける。一部の自由党員は、刺客が政府によるものと思い、勅使を追い返す事を訴えるが、板垣はこの事を咎め、勅使を受け入れる事を決める。
その頃、勅使来訪の知らせを受けた岐阜県令が慌てて見舞いを送るが、板垣は事件に対し見て見ぬ振りをしていた事に怒り、見舞いを断る。



板垣退助を襲撃した犯人、相原尚褧(あいはらなおぶみ)は

愛知県東海市横須賀の小学校教員であり、東京日日新聞の保守主義に傾倒していた。
その為自由党を敵視しており、板垣の東海道遊説を知ると、板垣の殺害を決意する。
1882年(明治15年)4月5日、自由党員に扮し、岐阜の玉井屋に泊まる。
この時、殺害のために板垣との面会を試みたが断られる。そして翌日、犯行におよぶ。

事件後、6月26日から岐阜重罪裁判所で裁判を受ける。
相原は無期懲役の判決を受けるが、1889年(明治22年)、大日本帝国憲法発布の恩赦で釈放される。
釈放後、板垣の元に訪れ、謝罪。
板垣は罪を許した。

相原は北海道の殖民事業に携わる為北海道へ向かうが、その向かう船上で行方不明となる。
自殺したとも、誤って海に転落したとも言われている。
一説には相原の背後にいた板垣襲撃を計画した者に殺害されたとも噂されるが
真相は不明である。

「板垣死すとも自由は死せず」


「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉は、板垣退助が襲撃を受けた際に叫んだと言われている。
しかし、本当にそう叫んだかは不明である。
文章として登場したのは、4月11日の大阪朝日新聞の、板垣退助は「板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」と叫んだという記事である。
後の報知新聞の取材によると、この「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は、内藤魯一が事件時に叫んだ言葉であり、内藤が板垣が叫んだ事にしたという。
他にも説があり、板垣本人がよく似た言葉を襲撃された際叫んだという。


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